強力なパワースポットと言われる神社・天河大辨財天社にお参りしようと天川村を訪れたのですが、参拝後、神社の少し先で昔の木造校舎の小学校を見つけました。この小学校、「東の渋沢、西の五代」と称された明治時代の実業家・五代友厚にゆかりがあるそうです。吉野の山奥で、五代の功績の一端に触れました。
■天川村へ
山奥にある天川村へは、麓の街から国道309号を登っていきました。奈良の吉野地方から和歌山の熊野地方にかけては、山奥ながら観光地という側面もあり、主要道路は交通量が割と多いです。観光バスや大型トラックが前にいて、走行ペースが遅くなることもしばしば。のんびり行きたいですね。途中にある道の駅「吉野路 黒滝」(黒滝村)は、ちょうどいい休憩ポイントでした。
天川村に入り、国道309号から県道53号へと進むと、程なく天河大辨財天社に到着です。
■天河大辨財天社
天河大辨財天社は、飛鳥時代に修験道の開祖・役行者が大峰山系の弥山の神を祀ったことが始まりのようです。現在の地に社殿を建てたのは天武天皇とされ、平安時代には弘法大師・空海が高野山を開く前に修行の拠点としていたそうです。
主祭神は市杵島姫命(いちきしま ひめの みこと)で、弁財天(辨財天)としても信仰される水の神、芸能の神です。芸能人や芸能関係者の参拝も多いそうですね。
〇天河大辨財天社 公式HP
本殿を拝するための拝殿は、神楽殿と一体化している珍しい形式。拝む時に鳴らす鈴は、鈴が三角形に三つ連なった「五十鈴」と言う独特なものでした。
霊験あらたかな吉野、熊野、高野山といった霊場に囲まれ、創建の経緯や深淵な山奥に鎮座することからか、近年は「パワースポット」ともされ人気のようです。この日も、混んでいるわけではないのですが参拝客がひっきりなしに訪れていました。
個人的には、小説をもとに映画化・ドラマ化された「天河伝説殺人事件」の印象のほうが強く残っています。
境内はそんなに広くはないので、あちこち見て回ってもそれほど時間はかかりませんでした。
境内で特にいいなと思ったのは、手水舎のある池です。
とても小さな池ですが、澄んだ水が湧き、綺麗で涼しげ。苔むした岩々など、純和風の雰囲気でした。
神職のかたにうかがったところ、この池の水は山から湧水を引いてきているとのこと。道理で綺麗なわけです。池の水は小川となって、境内の外に流れ出ていました。
この神社についてのブログ記事は既に膨大な数があると思いますが、この池を気に入って記事に書く人はあんまりいないと思いますので、今回ご紹介してみました。
■県道53号を先へ
参拝を終わって次はどうしようかと考えたのですが、神社に至る県道53号が空いていて非常に走りやすく、川(天ノ川)沿いの山間の景色も良かったので、国道309号には戻らず、もう少し先まで走ってみることにしました。
このまま天ノ川沿いに東へ行けば国道163号(観光ルートに使われるメジャーな道です)に出られるようなので、それを使って麓に降りようという目論見です。
しかし進んでいくと、すれ違い困難な細い道が断続的に続くようになりました。
写真を撮っていないので代わりにGoogleマップのストリートビューを貼っておきますが、「走りやすく景色が良い」と言う状況ではなくなってしまいました・・・。
これでは走る理由が薄れてしまうので、元来た道を戻って帰ることにしました。
■山奥の木造校舎
ちょうど集落が現れて道が広くなったので、方向転換のため道沿いの広いスペースに入らせてもらったのですが、その場所で木造の大きな建物が目に留まりました。
校庭のようなスペースもありますし、どうやら建物は学校の校舎のようです。でもバーベキューやソフトクリームののぼりが立っていますし、校庭?に車が数台停まっていたりします。これは廃校を利用した何かの施設かもしれないと思い、少し寄ってみることにしました。
正面玄関らしき所は開いておらず、入口は別に設けられていました。「バーベキュー場 入口」とされています。
入口が開放されていたので、中にお邪魔してみました。するとやはり、この建物は学校の校舎でした。
中に入ったのですが人の気配が無く、大声で「ごめんくださーい!」と呼び掛けても、誰もいません・・・。受付の部屋に入ると、外へ出られるようになっていたので先へ進んでみました。
外へ出ると、川沿いにバーベキューサイトが並んでました。サイトは真新しく、木造校舎とは対照的です。
サイトにはお客さんが二組いらっしゃって、バーベキューを楽しんでいました。その近くに施設のかたもいらっしゃいましたので、校舎の見学をお願いし、OKをいただきました。その時、「五代友厚の資料もあるから見ていってね」とのこと。
五代友厚と言えば元薩摩藩士で明治時代の実業家。特に大阪の経済発展に大きく貢献したとされています。朝ドラ「あさが来た」(2015-2016年放送)と大河ドラマ「青天を衝け」(2021年放送)では物語の重要な役どころとして登場し、ともにディーン・フジオカが演じた人物。吉野の山奥の学校で五代の名を聞くとは意外です。
ともかく、校舎に戻りました。
■てんかわ天和の里
さて、そもそもですが、一体ここは何なのか。のぼりに書かれていた「てんかわ天和の里」をスマホで検索すると、公式HPがありました。
2002年に廃校となった旧「天川村立和田小学校」の校舎を利用した交流施設で、バーベキューや川遊び、木工体験や郷土料理体験など、地域の自然と文化を活かした様々なアクティビティーが用意されている施設とのことでした。
〇てんかわ天和の里 公式HP
tenwanosato.com
平屋建ての木造校舎を見学させていただけるのも、自分にとっては貴重な体験です。ありがとうございました。
今回は偶然訪れて運よく開いていましたが、訪問されるかたは事前に開館日程などを問い合わせておいたほうが良さそうに思います。
校舎内の教室は、廃校前の様子が残されているものと、体験などで使用する部屋になっているものがあり、いずれも興味深く拝見させていただきました。また、どの部屋も掃除されていて、大切に維持、管理されている印象を受けました。
それにしても、木造校舎というのはノスタルジーを強く感じますね。
■五代友厚との関わり
校舎の一番奥に、「五代友厚図書館」との看板がありました。施設のかたが勧めてくれたのは、ここですね。
部屋の中の本棚の一つが「五代友厚図書館」とされていて、五代に関する書籍などが収められていました。手作り感のある「図書館」で、なんだか和みました。
五代友厚に関しては、様々なサイトで紹介されています。
〇国立国会図書館 公式HP
〇大阪商工会議所 公式HP
しかし、なぜこの山奥の小学校で五代友厚が取り上げられているのでしょうか。その理由は、別の教室に示されていました。
写真横の説明文には、この場所・天川村和田地区と五代とのつながりが記されていました。
ちなみに、和田地区と天河大辨財天社の位置関係は、このようになります。赤い線の内側が和田地区ですね。
ここには江戸時代から「天和鉱山(天和銅山)」があり、幕府の管理のもと銅が採掘されていたそうで、明治時代に五代が鉱山の経営に関わるようになり、海外の進んだ技術が導入されるなどして採掘量が増大したとのことです。
五代は26もの鉱山の経営に関わって「鉱山王」と呼ばれていましたが、この天和鉱山は五代が手掛けた最初の鉱山になります。
天和鉱山の発展にともない地域の人口は増え、最盛期(明治初期)には約3000人に達し、飲食店なども多数できて鉱山町として大いに賑わったそうです。
五代は住民のこどものため、財を投じてここに学校を設立する支援をしたとのことで、その学校が天川村立和田小学校の前身となっているそうです。
この木造校舎は昭和17年(1942年)に建てられたもので、地元の木材を使った総ヒノキ造りとのことです。
天和鉱山は次第に産出量が減って衰退していき、昭和30年(1955年)に廃鉱となりました。最後の所有者は三菱マテリアルのようですね。
和田小学校は昭和47年(1972年)に別の小学校と統合され、校舎はそのままで名前が天川西小学校に変わります。そして平成14年(2002年)に別の小学校との統合されたことから、廃校になりました。
そして廃校後の校舎は、地元の有志によって交流拠点「てんかわ天和の里」として生まれ変わり、2016年から運営されています。
〇天川村 公式ページ
山間地は過疎化が加速しており小学校の廃校は珍しくないとはいえ、和田地区の場合は鉱山のおかげで一度は大きく発展し、鉱山と共に次第に衰退した歴史を持つ場所です。
かつての鉱山事業は公害や環境破壊、労働問題が伴うことが多く、現代の視点では良い面ばかりを語ることはできません。しかし地域の人たちは地元を発展させてくれた五代に恩を感じ、木造校舎を保存して「五代友厚図書館」も設けるなど、かつてを知るお年寄りが減る中でその歴史を語り継ごうとしています。天川村での鉱山事業は、地域にとって五代の功績なのですね。
清峰に囲まれた吉野の山奥で、五代友厚の足跡の一端と地域の人たちの思いに出会えました。